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帝京はキャプテンと3番遊撃の人肉カレーが退部したんだっけ?
帝京の応援かっこいい!
当時17歳。高校三年生。一年生の時に、帝京が練習試合にきましたが、ガチムチの体格でチビりました。まさか優勝したりするとは。この頃からかなりウェイトトレーニングしてましたね。
この年からNHKスポーツテーマのメロディ変わったな⚾
春の大会までは金管バンド。夏の大会から今も使われているオーケストラ。といっても最近は、福山雅治の曲になってしまいましたが。同じメロディーを長々と苦しそうに歌うばかりで、全く感動しないんですよね、あの曲。
帝京も星稜も2年生投手だったが、翌年は両校夏は予選敗退だったんだよね。
加藤向井。チョコボール鷹。
まさかこの夏以降、帝京の全国制覇が無いとは…神宮大会優勝までは良かったんだよな。帝京は東京実によく負けるイメージ…あと国体優勝出来なかったことより、この全国制覇の価値の方が高いですよね?平成12,13年、そして、16年と横浜は国体優勝しているけど、智辯和歌山、日大三、駒大苫小牧の甲子園制覇のイメージは下がっていないけど、智辯和歌山が近畿大会未勝利で選抜選出された時に、甲子園制した桐生一ではなく、智辯和歌山が1番遅く新チームを発足させたことを加味されたみたいに言われていたから公開競技なのに国体優勝にそんな価値があるの?と疑問を。だけど明徳が国体優勝した時は智辯和歌山より選抜選出確実な高知優勝、四国ベスト4ながら、鳥取3位、中国ベスト4の米子北が選出されて…この時は国体優勝なんか話題にもならなかった。高野連はやらしいね。
小学校四年生で、車の中のラジオで聞いてました。あの頃に帰りたいです
この頃私も小学校4年生でした
当時、小学校4年生ということは丑年ですか??
私は小学校3年生でした。
内野スタンド埋まってないの不思議。
何といっても阪神大震災からたったの5か月です。3月の選抜は、震災に加え、東京でサリン事件も起き、開催できたこと自体奇跡でした。夏の大会では多少ましになったものの、応援団を中心に移動が大幅に制限されました。移動を考慮して、殆どの日程が九時半開始の一日3試合、4試合日もこの大会から30分繰り下げられて八時半開始となりました(東日本大震災や熱中症対策を経て、日程や試合開始時間はまた早くなりましたが)。更に、この年の帝京は、ヒールの前田監督が例年に増して怖くなり、チームも破綻状態。夏は地方大会から荒れ放題で、それを連日マスコミが報道。甲子園でも改善せず、決勝に来るまでにかなりラフプレーなどやらかしたので、これもまた集客の酷さに大きく影響しました。98年の松坂世代で一気に連日満員の大会となり、球場はJリーグ開幕前、つまり93年以前の活気のあった甲子園に戻りました。そうか、もうこの時代を知らない世代がどんどん増えているのかあ。時が経つのは速い。
@@mittyatya 30年前だからそりゃ知らない世代いるだろ笑10年前でも今の若い子は知らないよ。まぁ甲子園自体の人気が凄いのはここ数年でそれでも超満員となるのは人気校同士の対決に限られるわな。今年は暑さや二部制も相まって客が少ない日もあったした。ちなみに清宮オコエのいた2015年や大阪桐蔭、金足の2018年は特にピークだった。この暑い時代に甲子園に徹夜できてたもん。
@@カプチーノ-e2d つまりは、CDを中心に殆どデジタル化が完了し、安室奈美恵や小室ファミリーで盛り上がった90年代半ばという超近代的社会が、もう30年前ということに驚いているんですよ。横浜松坂を見ていない最初の世代、西武ライオンズ球場を知らない最初の世代がもう20代後半かあ。当然オウム真理教や統一教会のニュースはさらにその前になるわけだから、テレビ局内の半分近くのスタッフが、もうこれらの事件の詳細を知らないそうで、そのことに有田氏が驚いていましたが、無理もない。高校時代の清宮、オコエ、18年の金足を知らない世代も直ぐに多数派になるのでしょうね。18年の金足の活躍を見た殆どの人は、84年に金足がPLを追い詰めた歴史を知らなかったそうですね。
帝京の吉野はガチンコ出てたよね。かなりガラ悪かった。
2年生が多くて翌年も期待できた星稜ですが、秋季大会は北信越の準決勝で福井商業に0-1で負けて選抜選出漏れ、山本の失点はこの1点だけでしたし、当時は事前に枠が決まってないので、北信越3高校でも良かったと思う、敦賀気比と星稜がベスト4に残った夏を考慮して。
福井商はそのまま神宮大会準優勝、夏は甲子園ベスト4、国体は準優勝という…
3回表の石黒選手の打球がホームランだったら、8回までのチャンスを1回でもモノにできていたら、星稜の優勝もあり得ましたね。あまり語られてない試合だけれど、2019履正社戦並みに惜しい試合だ。
95年の甲子園はPL学園の福留選手が中心でしたね。PL学園が智弁学園に準々決勝で敗退したら、熱戦は続いていましたが、甲子園の熱も消えていったかのようでした。後、阪神大震災の影響はありましたね。確か決勝は月曜でしたので、この観客もやむを得ないのでは。
特に3月選抜時はのサリン事件も起き、大阪と東京がダブルパンチ。8月の甲子園も、神戸では応援団の移動が大幅に制限されていました。
星稜で2年生から活躍する投手は山岸投手や山口投手といたけど山本投手も翌年また戻って来てくれると期待していたが肩の調子が悪かったのか本調子には程遠いピッチングで春の選抜を逃し最後の夏も県予選で確か押し出しサヨナラで負けてしまい聖地に帰って来れなかったのが残念だった、帝京の白木投手も選抜には出場したものの夏は帰って来れなかった、当時それが非常に残念だった。
北陸対決見たかったこの対戦高校サッカーで見た
敦賀気比が決勝進出していれば石川と福井の隣県同士の試合でしたね。高校サッカーでも帝京が星稜に勝ちましたね
この帝京高校の優勝が東東京勢最後の甲子園優勝。1996年以降東京勢の甲子園優勝は西東京のチームばかり。それが東京の高校野球勢力図は西高東低といわれるゆえん。しかし、1995年もあったが甲子園で東京勢同士の直接対決は東東京勢全勝だから、わからないもんだね。
今年の関東一、あと一歩で準優勝でしたね。ちなみに小倉監督が関東一から日大三に移り、大型チームを作って2001年夏優勝するまでは、断然東東京の方がレベルが上でしたね。当時は復活し始めた早実もまだ東でしたし、国士館も区割り変更で東に入りましたし。この年に関しては西東京の創価の方が、前年の甲子園の経験からして帝京よりも断然有利とされていましたが、この時代では珍しい前評判でした。
ここまで優勝高校自体が黒歴史の回は他にないかも
この映像はNHKですが、ABC朝日放送のテレビ解説は箕島高校元監督の尾藤さんでした。星稜の山下監督との親交もあってか、やや星稜贔屓の解説をされていたようです。
そりゃあまぁするわわなぁ
星稜中学2年時の山本省吾と全中の準決勝で対戦したのはええ思い出
歴代の夏の甲子園でこの優勝だけは納得できない。ずるさ露骨のすっきりしない優勝。
まだこんなこと言っているのか。勿論帝京の校風や前田監督の態度に問題があるとはいえ、メディア含め周囲も執拗に追い詰めすぎ。そうなれば気の強い前田監督の性格からして、もっとやるに決まっているでしょう。ちなみに監督業を離れれば、前田監督はビックリするくらいに良い人です。なぜあんなにヒール役になるのか、全く想像がつかない。
2021智弁和歌山よりマシです
平成7年か。PLの福留孝介が注目された年やね
選抜初戦敗退、夏はベスト8だけど国体優勝。甲子園ではまさかのゲッツーで最後の打者でしたね。
この大会から高校野球を見ました
帝京の吉野選手の勝負強さに引き込まれた当時中学3年の自分。
この日から僕は高校野球野球のファンになり、星稜の山本選手のファンになりました❗山本選手も今ではスカウトですね✨
いつも思うのですが、この頃の甲子園って、空席けっこうありますよね。あの、松阪投手の横浜対PLの試合も空席あります。いつから、あんなに混むようになったのでしょうか?
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりました。松坂の時の横浜PL戦は、あいにく丁度お盆が明けた直後の平日だったような?前日の3回戦まで熱気満々でしたので。ちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう事情がありました。この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。前年の94年九州勢対決ではもう少しお客さんがいました。翌年96年の奇跡のバックホームでも、95年よりましとはいえ、98年と比べればお客さんは断然少ないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした(まあ95年の決勝は、やはり震災の影響による移動手段の制限が相当大きいですが)。「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので。実際に当時見た感覚ではけっこう空席がありました。ぱんぱんに埋まってお客さんが帰ってきたのは、98年の決勝からです。
今のうちに僕も泉丘の監督なるために勉強しておこう
24年前の石川県民、再び星稜が決勝に来たぞーーー。相手は履正社予想オーダー1番センター、東海林2番レフト、今井3番サード、知田4番ショート、内山5番ファースト、大高6番セカンド、福本7番ライト、岡田8番ピッチャー、奥川9番キャッチャー、山瀬石川県勢、北陸勢初の夏、全国制覇や!!
石川めちゃくちゃ盛り上がっています
ドンマイです強かったけど
ここで勝てないのが星稜らしいと松井秀喜が言っていた。だけどこれまでの星稜なら智辯和歌山に負けて終わりだったと。
春、伊都に負けて初戦で消えたようなチームが優勝するなんて凄い準々決勝だかその辺で創価との東京対決だったな
空席がある決勝戦なんて今じゃ考えられない。
Taka Yan 確かに
93,94,96,97年の決勝を確認したら満員ですね
最近では2001年の決勝が一番少ないかな
まあ阪神大震災があった年でしたし、かつ地元の高校が関与していない決勝戦でしたから、仕方がないのでは?もしかしたら平日の決勝戦かな?
90年代前半はガラガラ松坂の登場により高校野球人気が爆発的に回復した
2024年夏も決勝で関東一高が負けたため、東東京勢最後の優勝は95年帝京がキープ。。。都心部は練習スペースが限られるという逆境があります。東東京球児にはまた全国制覇を見せて欲しいです。by23区東部民
私は練馬区大泉と埼玉県の境界を両足でまたげるところに地元の家がありますが、練馬や板橋は基本住宅街を中心に整備されてきた区なので、場所によっては練習スペースを確保できるはずです(もっとも練馬区は小竹向井原で板橋とくっついているにも関わらず、昔から西東京に入っていますが)。ただ板橋の中でも、帝京のある十条は、昔からいわく付きの地域なので、狭小地区が多いですね。そうは言っても、帝京が強かったのは、ビックリするとほどの狭小グラウンドを、さらに野球部とサッカー部が真っ二つに割って共用していた時代なんですよね。広い専用グラウンドができてから、何故だか急に弱体化し始めたので、逆境の方がよかったのかもしれません。狭小グラウンド時代については、よくとんねるずがネタにしていましたね。「シュート練習しようと思って列を作ると後ろからダイレクトにノックのボールが背中にぶつかって、いてえってなるんだよな」と木梨が語っていました。
星稜の山本投手のグラブ外野手用みたいな形ですね
ウェブ部分ですよね?当時の投手はこのウェブの投手用が人気で出ていました。マダックスモデルとか懐かしい。
1:00:48 1:01:07 前のバッターの死球があったとはいえ、体に近い球で小坂が2回も睨みつけたことで逆に白木のハートに火を点けた。気が優しそうで実は向こう気の強い、いいピッチャーだった。高目の真っ直ぐのキレが良くて、順調に成長すればプロに行くもんだとばかり思ってたのを思い出す。
2019夏。星稜は夏はこの大会以来のベスト8。3勝したのもこの大会以来。
星稜と仙台育英、両チームとも準優勝が2回(育英は春も1回)とあと一歩、おそらくまだ県代表が優勝していない石川、宮城の方も悲願達成の瞬間を見たいでしょうね。
仙台育英は悲願達成しましたね。でも連覇ならずのイメージが強くて…駒大苫小牧みたいには行きませんでしたね。
帝京ブラバンの安定感
1:53:57 ここいらの空席がすごいな。決勝とは思えん。
この年は帝京は大問題ばかり続いて大バッシング。加えてJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響してそうです。前年の94年の九州勢対決ではもっとお客さんがいました。松坂世代の98年では一気に集客が回復しましたが、この決勝の翌年96年の奇跡のバックホームでも、引き続きお客さんは少ないので、この頃は相当野球人気が落ちた印象でした。
決勝戦のこの日が月曜日やったこともあるかな〜
帝京不人気の象徴😢
帝京の吉野は、43歳になった今も社会人のクラブチームで野球続けてますね。
ガチンコ出てたよね
星稜は満身創痍やったなあ。よく1ー3で済んだと思う。
これ行ったなー。 とんねるずの、タカさんも来てたんだよなー。
準決勝で敦賀気比が帝京に勝っていたら春の北信越大会の再戦になってましたね。ちなみにその時は星稜が山本君を先発させながらのコールド負けでした。
球審田中1塁清水2塁岡本3塁鹿多の4人です。
私はこの試合バックネット裏で観戦してました。懐かしいですね。最近は甲子園で帝京のユニフォームが見られなくなりました。さみしいです。
提供が わざとランナーを走らせなかった。前多監督は全二歩カントクを辞退 ヤマシタさんがしてスクイズでオールジャパン勝ち越し
この年は選抜での無様な敗退で前田監督が激怒。ただでさえ厳しい練習が、さらに狂気じみた激しさになったんですよね。結果、春のキャプテンなど数人の主力が退部。まさか夏に優勝とは予想しませんでした。
先発メンバーのほとんどが2年生で翌年選抜の文句無しの優勝候補だったにも関わらず、この年の選抜と同じ失敗を繰り返してしまった‥
@@narasino 翌年の選抜は岡山城東に敗れましたね。この試合はビデオで何度も見ました。
前田監督に好感は持てないけど、夏の予選のあの件で相当なバッシングにあいましたがそれでもブレなかったのは凄いと思う。恐らくは、自身の身辺にも見ず知らずの人からの嫌がらせ等は受けていたと思います。
帝京って寮が無くて選手が家からの通いの選手ばかりのなか、練習がエスカレートして終電間際までになってたみたいですね。
星稜に 🏆️優勝してほしかったと思っただけに がっくりしたのを 覚えている!
星稜の山本投手は、1位指名を受けるほどの好投手だけど、帝京の先発、白木投手も実は、隠れた好投手。体型が太り気味なのは気になるが、重い速球に加えて、映像でも見られるようにフォークも投げる本格派。ただ、翌年の春はエースとして、甲子園のマウンドに立ったが、初戦でサヨナラ負けしてしまった。
決勝やのに空席が目立つのかここ10年ぐらいで高校野球のブランド力と注目度が上がったんやな
3年後の松坂登場で人気が復活した気がする
90年代後半〜00年代前半はJリーグ発足に伴うサッカー人気で高校野球はウンコだったからね…松坂の年の夏だけは盛り上がったが
まあ阪神大震災があった年ですから、仕方がないのではないでしょうか?
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりました。ちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう状況でした。この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。前年の94年九州勢対決ではもっとお客さんいました。翌年96年の奇跡のバックホームでも、お客さんはやはり少ないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした。「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので、実際に当時見た感覚では割と空席がありました。
なんだかんだいいピッチャーというのはコントロールがいいのが優秀なんかな?
決勝戦なのに人が少ないな
決勝戦が石川代表vs東東京代表ということもあってか、三塁側の帝京サイドが内野、アルプススタンドともにかなり空席が目立つ試合でしたね。
選抜~夏の決勝まで、帝京は問題だらけで、マスコミも世間も大バッシングしていました。それにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響してそうです。前年の九州勢対決ではもっとお客さんいましたし、松坂世代では一気に集客が回復しましたし。翌年96年の奇跡のバックホームでも、お客さんは少ないので、この頃は相当野球人気が落ちた印象でした。
まあ阪神大震災があった年でしたし、かつ地元の近畿勢か関与していない平日の決勝戦ですから、仕方がないのでは?
東東京は関東一高と二松学舎大付ばかり出てくるようになりましたねこの頃は帝京ばかりでした90 関東一高91 帝京92 帝京93 修徳94 関東一高95 帝京96 そうじつ97 岩倉 98 帝京 99 城東00 日大豊山01 城東02 帝京03 雪谷04 修徳05 国士舘06 帝京07 帝京08 関東一高09 帝京10 関東一高11 帝京12 成立学園13 修徳14 二松学舎大学付15 関東一高16 関東一高17 二松学舎大付18 二松学舎大付19 関東一高早実と国士舘は今は西東京ブロックになりました
関東一高ってめっちゃ名門やなw昔から強いなんて
@@田中か-v4i 日大三を強力打線に化けさせ、2001年~2011年まで常勝軍団に格上げさせた、あの小倉監督が采配をしていました。85年~94年です(90年は一旦退いて別の方が監督でした)。この時も小倉監督は、85年の夏初出場でベスト8、87年春準優勝へとチームを導いています。
山本省吾くんひさびさに見たわ。確かこの時キャッチャー共々テーピングでガッチガチに固めて決勝に臨んだんだよね。もうこの時に肩が悲鳴あげて結局プロに行ったんだけどあまり活躍できなかった。
永田誠 40勝しているのでまずまず頑張ったと言えるでしょう。元々コントロールとテンポで勝負するタイプですし。
決勝なのに空席あるのか…
まぁ地元が関与しない平日の決勝戦ですし、阪神大震災があった年ですからね。
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりましたちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう事情がありました。関大一校のOBばかりの声が目立っている印象でした。この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。前年の94年九州勢対決ではもう少しお客さんはいました。翌年96年の奇跡のバックホームでも、98年ほどお客さんはいないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした。「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので、実際に当時見た感覚では割と空席がありました。
選抜で伊都高校に負けた帝京その伊都に勝った星稜が夏は帝京に負けた
よくありますね 2007の佐賀vs東京のような
帝京も智弁和歌山との名勝負あるわけやし、また甲子園来てほしい
東の横綱復活頼みます
平成4年春優勝試合で宮崎選手が外野からキャッチャーまで一投げノーバウンドアウトして優勝確か私の記憶違いでなければ平成7年の優勝試合もセンターの一番深いところからキャッチャーまで一投げしていた選手がいたような投げた本人が一番覚えているはずですね。
ノーバウンドでわなくワンバウンドです。
この年の帝京って、都大会において、ピッチャーに調整投球させるために、サヨナラのランナーを故意にホームインさせなかった問題があったんだっけ?
サヨナラじゃなくて、コールドゲームやないかな。タッチアップ事件、で有名ですね
この帝京3番吉野くん。ガチンコのメジャーリーガー目指す企画に出てきた。その時のコーチ池田って奴がバカだったから吉野くんは途中で外されたけど、見る目ある人だったら、吉野だったらメジャー契約取れたかもしれないなぁ。
台本あるからね~
帝京は地方大会の時からあまり評判がよろしくなかったもんね、、異常な程の練習量で当時の3年生が大量離脱したってのを本で読んだけどそれでも戻ってきたショートの吉野さんのファンでした。ガチンコに吉野さんと78回大会優勝した松山商のドカベンが出てたのにはビビりましたけど(笑)
帝京は星稜と違いすっかり甲子園に出場しなくなりましたね
オリックス二桁カルテットの山本
この頃は今よりユニフォームの縦縞がだいぶ細いですね
ストライプの本数・幅も違いますね
一緒じゃねーのー?
chiro kazama 見比べると全然違うのが分かる
この年の帝京は予選で相手を見下した、公式戦なのにまるで相手を練習台扱いして色々批判を浴びてたな。この決勝でも星稜信藤への故意としかみえない不用意なタックルとかあったけど、星稜が負けたのはここまで来るのにけが人が多過ぎたのが一番の敗因だったと思う。あだち充のH2の漫画で悪徳高校のモデルにもされて気の毒だったな帝京は。とも思った。もしこの時星稜が優勝してたらH2の帝京がモデルと思われる(てかどう見ても帝京がモデルとしか思えないが笑)栄京学園も生まれてなかったかもね。
連載で英京学園登場したの93年終わりあたりっすよ
北斗神拳のジャギみたいな帝京高校の前田監督と明徳義塾の馬渕監督。「どんな手を使ってでも勝てば良い。」そんな風にしか聞こえない。練習して積み上げてきたものが、なんの役にも立たなくて相手を潰せば良いとか。さすがだと思います。
実は漫画家のH2の原作者のあだち充さんのご子息が当時帝京中学・高校に通っていたらしい。そこらへんの影響も大きいのかと。時系列的にも漫画のほうが少し早いしね。
この時は星稜よりも敦賀気比の方が強かった!!
阪神大震災の年 星稜の初優勝はこの時が一番近かったかも この時に星稜優勝できなかったのが響いてるかも
優勝の瞬間実況静かだな
この頃まではNHKも、昔風の静かな実況が良しとされていましたから、こんな感じのトーンもまだ今ほど珍しくなかったです。加えて阪神大震災後最初の夏。更にこの年大問題の帝京。これらが重なり、全体的に盛り上がる雰囲気ではありませんでした。
星稜は監督の方針と接戦が多かっただけに控え投手に登板機会を与えることができず育てることができず山本省吾が3年生の時も全国制覇できなかった。
やましょー!オードリーの若林に似てる
当時はオードリー若林の存在がなかったけど、今見るとそう感じますね!
当時の星稜の捕手が今年の星稜バッテリーの中学時代の指導者。
シノトモ 捕手の弟ですよ。
前田監督若い!
帝京?誰が応援するねん
親でしょ
帝京はキャプテンと3番遊撃の人肉カレーが退部したんだっけ?
帝京の応援かっこいい!
当時17歳。高校三年生。一年生の時に、帝京が練習試合にきましたが、ガチムチの体格でチビりました。まさか優勝したりするとは。この頃からかなりウェイトトレーニングしてましたね。
この年からNHKスポーツテーマのメロディ変わったな⚾
春の大会までは金管バンド。夏の大会から今も使われているオーケストラ。といっても最近は、福山雅治の曲になってしまいましたが。同じメロディーを長々と苦しそうに歌うばかりで、全く感動しないんですよね、あの曲。
帝京も星稜も2年生投手だったが、翌年は両校夏は予選敗退だったんだよね。
加藤向井。チョコボール鷹。
まさかこの夏以降、帝京の全国制覇が無いとは…
神宮大会優勝までは良かったんだよな。
帝京は東京実によく負けるイメージ…
あと国体優勝出来なかったことより、この全国制覇の価値の方が高いですよね?
平成12,13年、そして、16年と横浜は国体優勝しているけど、智辯和歌山、日大三、駒大苫小牧の甲子園制覇のイメージは下がっていないけど、智辯和歌山が近畿大会未勝利で選抜選出された時に、甲子園制した桐生一ではなく、智辯和歌山が1番遅く新チームを発足させたことを加味されたみたいに言われていたから公開競技なのに国体優勝にそんな価値があるの?と疑問を。
だけど明徳が国体優勝した時は智辯和歌山より選抜選出確実な高知優勝、四国ベスト4ながら、鳥取3位、中国ベスト4の米子北が選出されて…この時は国体優勝なんか話題にもならなかった。高野連はやらしいね。
小学校四年生で、車の中のラジオで聞いてました。あの頃に帰りたいです
この頃私も小学校4年生でした
当時、小学校4年生ということは丑年ですか??
私は小学校3年生でした。
内野スタンド埋まってないの不思議。
何といっても阪神大震災からたったの5か月です。3月の選抜は、震災に加え、東京でサリン事件も起き、開催できたこと自体奇跡でした。
夏の大会では多少ましになったものの、応援団を中心に移動が大幅に制限されました。
移動を考慮して、殆どの日程が九時半開始の一日3試合、4試合日もこの大会から30分繰り下げられて八時半開始となりました(東日本大震災や熱中症対策を経て、日程や試合開始時間はまた早くなりましたが)。
更に、この年の帝京は、ヒールの前田監督が例年に増して怖くなり、チームも破綻状態。夏は地方大会から荒れ放題で、それを連日マスコミが報道。甲子園でも改善せず、決勝に来るまでにかなりラフプレーなどやらかしたので、これもまた集客の酷さに大きく影響しました。
98年の松坂世代で一気に連日満員の大会となり、球場はJリーグ開幕前、つまり93年以前の活気のあった甲子園に戻りました。
そうか、もうこの時代を知らない世代がどんどん増えているのかあ。時が経つのは速い。
@@mittyatya 30年前だからそりゃ知らない世代いるだろ笑
10年前でも今の若い子は知らないよ。
まぁ甲子園自体の人気が凄いのはここ数年でそれでも超満員となるのは人気校同士の対決に限られるわな。今年は暑さや二部制も相まって客が少ない日もあったした。
ちなみに清宮オコエのいた2015年や大阪桐蔭、金足の2018年は特にピークだった。この暑い時代に甲子園に徹夜できてたもん。
@@カプチーノ-e2d
つまりは、CDを中心に殆どデジタル化が完了し、安室奈美恵や小室ファミリーで盛り上がった90年代半ばという超近代的社会が、もう30年前ということに驚いているんですよ。横浜松坂を見ていない最初の世代、西武ライオンズ球場を知らない最初の世代がもう20代後半かあ。
当然オウム真理教や統一教会のニュースはさらにその前になるわけだから、テレビ局内の半分近くのスタッフが、もうこれらの事件の詳細を知らないそうで、そのことに有田氏が驚いていましたが、無理もない。
高校時代の清宮、オコエ、18年の金足を知らない世代も直ぐに多数派になるのでしょうね。18年の金足の活躍を見た殆どの人は、84年に金足がPLを追い詰めた歴史を知らなかったそうですね。
帝京の吉野はガチンコ出てたよね。かなりガラ悪かった。
2年生が多くて翌年も期待できた星稜ですが、秋季大会は北信越の準決勝で福井商業に0-1で負けて選抜選出漏れ、山本の失点はこの1点だけでしたし、当時は事前に枠が決まってないので、北信越3高校でも良かったと思う、敦賀気比と星稜がベスト4に残った夏を考慮して。
福井商はそのまま神宮大会準優勝、夏は甲子園ベスト4、国体は準優勝という…
3回表の石黒選手の打球がホームランだったら、8回までのチャンスを1回でもモノにできていたら、星稜の優勝もあり得ましたね。あまり語られてない試合だけれど、2019履正社戦並みに惜しい試合だ。
95年の甲子園はPL学園の福留選手が中心でしたね。PL学園が智弁学園に準々決勝で敗退したら、熱戦は続いていましたが、甲子園の熱も消えていったかのようでした。後、阪神大震災の影響はありましたね。確か決勝は月曜でしたので、この観客もやむを得ないのでは。
特に3月選抜時はのサリン事件も起き、大阪と東京がダブルパンチ。8月の甲子園も、神戸では応援団の移動が大幅に制限されていました。
星稜で2年生から活躍する投手は山岸投手や山口投手といたけど山本投手も翌年また戻って来てくれると期待していたが肩の調子が悪かったのか本調子には程遠いピッチングで春の選抜を逃し最後の夏も県予選で確か押し出しサヨナラで負けてしまい聖地に帰って来れなかったのが残念だった、帝京の白木投手も選抜には出場したものの夏は帰って来れなかった、当時それが非常に残念だった。
北陸対決見たかったこの対戦高校サッカーで見た
敦賀気比が決勝進出していれば石川と福井の隣県同士の試合でしたね。
高校サッカーでも帝京が星稜に勝ちましたね
この帝京高校の優勝が東東京勢最後の甲子園優勝。1996年以降東京勢の甲子園優勝は西東京のチームばかり。それが東京の高校野球勢力図は西高東低といわれるゆえん。しかし、1995年もあったが甲子園で東京勢同士の直接対決は東東京勢全勝だから、わからないもんだね。
今年の関東一、あと一歩で準優勝でしたね。ちなみに小倉監督が関東一から日大三に移り、大型チームを作って2001年夏優勝するまでは、断然東東京の方がレベルが上でしたね。当時は復活し始めた早実もまだ東でしたし、国士館も区割り変更で東に入りましたし。
この年に関しては西東京の創価の方が、前年の甲子園の経験からして帝京よりも断然有利とされていましたが、この時代では珍しい前評判でした。
ここまで優勝高校自体が黒歴史の回は他にないかも
この映像はNHKですが、ABC朝日放送のテレビ解説は箕島高校元監督の尾藤さんでした。星稜の山下監督との親交もあってか、やや星稜贔屓の解説をされていたようです。
そりゃあまぁするわわなぁ
星稜中学2年時の山本省吾と全中の準決勝で対戦したのはええ思い出
歴代の夏の甲子園でこの優勝だけは納得できない。
ずるさ露骨のすっきりしない優勝。
まだこんなこと言っているのか。勿論帝京の校風や前田監督の態度に問題があるとはいえ、メディア含め周囲も執拗に追い詰めすぎ。
そうなれば気の強い前田監督の性格からして、もっとやるに決まっているでしょう。
ちなみに監督業を離れれば、前田監督はビックリするくらいに良い人です。なぜあんなにヒール役になるのか、全く想像がつかない。
2021智弁和歌山よりマシです
平成7年か。
PLの福留孝介が注目された年やね
選抜初戦敗退、夏はベスト8だけど国体優勝。
甲子園ではまさかのゲッツーで最後の打者でしたね。
この大会から高校野球を見ました
帝京の吉野選手の勝負強さに引き込まれた当時中学3年の自分。
この日から僕は高校野球野球のファンになり、星稜の山本選手のファンになりました❗
山本選手も今ではスカウトですね✨
いつも思うのですが、この頃の甲子園って、空席けっこうありますよね。あの、松阪投手の横浜対PLの試合も空席あります。いつから、あんなに混むようになったのでしょうか?
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりました。
松坂の時の横浜PL戦は、あいにく丁度お盆が明けた直後の平日だったような?前日の3回戦まで熱気満々でしたので。
ちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう事情がありました。
この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。
そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。
前年の94年九州勢対決ではもう少しお客さんがいました。
翌年96年の奇跡のバックホームでも、95年よりましとはいえ、98年と比べればお客さんは断然少ないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした(まあ95年の決勝は、やはり震災の影響による移動手段の制限が相当大きいですが)。
「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので。実際に当時見た感覚ではけっこう空席がありました。ぱんぱんに埋まってお客さんが帰ってきたのは、98年の決勝からです。
今のうちに僕も泉丘の監督なるために勉強しておこう
24年前の石川県民、再び星稜が決勝に来たぞーーー。
相手は履正社
予想オーダー
1番センター、東海林
2番レフト、今井
3番サード、知田
4番ショート、内山
5番ファースト、大高
6番セカンド、福本
7番ライト、岡田
8番ピッチャー、奥川
9番キャッチャー、山瀬
石川県勢、北陸勢初の
夏、全国制覇や!!
石川めちゃくちゃ盛り上がっています
ドンマイです強かったけど
ここで勝てないのが星稜らしいと松井秀喜が言っていた。
だけどこれまでの星稜なら智辯和歌山に負けて終わりだったと。
春、伊都に負けて初戦で消えたようなチームが優勝するなんて凄い
準々決勝だかその辺で創価との東京対決だったな
空席がある決勝戦なんて今じゃ考えられない。
Taka Yan 確かに
93,94,96,97年の決勝を確認したら満員ですね
最近では2001年の決勝が一番少ないかな
まあ阪神大震災があった年でしたし、かつ地元の高校が関与していない決勝戦でしたから、仕方がないのでは?もしかしたら平日の決勝戦かな?
90年代前半はガラガラ
松坂の登場により高校野球人気が爆発的に回復した
2024年夏も決勝で関東一高が負けたため、東東京勢最後の優勝は95年帝京がキープ。。。都心部は練習スペースが限られるという逆境があります。東東京球児にはまた全国制覇を見せて欲しいです。by23区東部民
私は練馬区大泉と埼玉県の境界を両足でまたげるところに地元の家がありますが、練馬や板橋は基本住宅街を中心に整備されてきた区なので、場所によっては練習スペースを確保できるはずです(もっとも練馬区は小竹向井原で板橋とくっついているにも関わらず、昔から西東京に入っていますが)。
ただ板橋の中でも、帝京のある十条は、昔からいわく付きの地域なので、狭小地区が多いですね。
そうは言っても、帝京が強かったのは、ビックリするとほどの狭小グラウンドを、さらに野球部とサッカー部が真っ二つに割って共用していた時代なんですよね。
広い専用グラウンドができてから、何故だか急に弱体化し始めたので、逆境の方がよかったのかもしれません。
狭小グラウンド時代については、よくとんねるずがネタにしていましたね。「シュート練習しようと思って列を作ると後ろからダイレクトにノックのボールが背中にぶつかって、いてえってなるんだよな」と木梨が語っていました。
星稜の山本投手のグラブ外野手用みたいな形ですね
ウェブ部分ですよね?
当時の投手はこのウェブの投手用が人気で出ていました。マダックスモデルとか懐かしい。
1:00:48 1:01:07
前のバッターの死球があったとはいえ、体に近い球で小坂が2回も睨みつけたことで逆に白木のハートに火を点けた。
気が優しそうで実は向こう気の強い、いいピッチャーだった。
高目の真っ直ぐのキレが良くて、順調に成長すればプロに行くもんだとばかり思ってたのを思い出す。
2019夏。星稜は夏はこの大会以来のベスト8。3勝したのもこの大会以来。
星稜と仙台育英、両チームとも準優勝が2回(育英は春も1回)とあと一歩、おそらくまだ県代表が優勝していない石川、宮城の方も
悲願達成の瞬間を見たいでしょうね。
仙台育英は悲願達成しましたね。
でも連覇ならずのイメージが強くて…
駒大苫小牧みたいには行きませんでしたね。
帝京ブラバンの安定感
1:53:57 ここいらの空席がすごいな。決勝とは思えん。
この年は帝京は大問題ばかり続いて大バッシング。
加えてJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響してそうです。
前年の94年の九州勢対決ではもっとお客さんがいました。
松坂世代の98年では一気に集客が回復しましたが、この決勝の翌年96年の奇跡のバックホームでも、引き続きお客さんは少ないので、この頃は相当野球人気が落ちた印象でした。
決勝戦のこの日が月曜日やったこともあるかな〜
帝京不人気の象徴😢
帝京の吉野は、43歳になった今も社会人のクラブチームで野球続けてますね。
ガチンコ出てたよね
星稜は満身創痍やったなあ。よく1ー3で済んだと思う。
これ行ったなー。 とんねるずの、タカさんも来てたんだよなー。
準決勝で敦賀気比が帝京に勝っていたら春の北信越大会の再戦になってましたね。ちなみにその時は星稜が山本君を先発させながらのコールド負けでした。
球審田中1塁清水2塁岡本3塁鹿多の4人です。
私はこの試合バックネット裏で観戦してました。懐かしいですね。
最近は甲子園で帝京のユニフォームが見られなくなりました。さみしいです。
提供が わざとランナーを走らせなかった。前多監督は全二歩カントクを辞退 ヤマシタさんがしてスクイズでオールジャパン勝ち越し
この年は選抜での無様な敗退で前田監督が激怒。ただでさえ厳しい練習が、さらに狂気じみた激しさになったんですよね。結果、春のキャプテンなど数人の主力が退部。まさか夏に優勝とは予想しませんでした。
先発メンバーのほとんどが2年生で翌年選抜の文句無しの優勝候補だったにも関わらず、この年の選抜と同じ失敗を繰り返してしまった‥
@@narasino 翌年の選抜は岡山城東に敗れましたね。
この試合はビデオで何度も見ました。
前田監督に好感は持てないけど、夏の予選のあの件で相当なバッシングにあいましたがそれでもブレなかったのは凄いと思う。
恐らくは、自身の身辺にも見ず知らずの人からの嫌がらせ等は受けていたと思います。
帝京って寮が無くて選手が家からの通いの選手ばかりのなか、練習がエスカレートして終電間際までになってたみたいですね。
星稜に 🏆️優勝してほしかったと思っただけに がっくりしたのを 覚えている!
星稜の山本投手は、1位指名を受けるほどの好投手だけど、帝京の先発、白木投手も実は、隠れた好投手。体型が太り気味なのは気になるが、重い速球に加えて、映像でも見られるようにフォークも投げる本格派。ただ、翌年の春はエースとして、甲子園のマウンドに立ったが、初戦でサヨナラ負けしてしまった。
決勝やのに空席が目立つのか
ここ10年ぐらいで高校野球のブランド力と注目度が上がったんやな
3年後の松坂登場で人気が復活した気がする
90年代後半〜00年代前半はJリーグ発足に伴うサッカー人気で高校野球はウンコだったからね…松坂の年の夏だけは盛り上がったが
まあ阪神大震災があった年ですから、仕方がないのではないでしょうか?
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりました。
ちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう状況でした。
この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。
そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。
前年の94年九州勢対決ではもっとお客さんいました。
翌年96年の奇跡のバックホームでも、お客さんはやはり少ないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした。
「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので、実際に当時見た感覚では割と空席がありました。
なんだかんだいいピッチャーというのはコントロールがいいのが優秀なんかな?
決勝戦なのに人が少ないな
何といっても阪神大震災からたったの5か月です。3月の選抜は、震災に加え、東京でサリン事件も起き、開催できたこと自体奇跡でした。
夏の大会では多少ましになったものの、応援団を中心に移動が大幅に制限されました。
移動を考慮して、殆どの日程が九時半開始の一日3試合、4試合日もこの大会から30分繰り下げられて八時半開始となりました(東日本大震災や熱中症対策を経て、日程や試合開始時間はまた早くなりましたが)。
更に、この年の帝京は、ヒールの前田監督が例年に増して怖くなり、チームも破綻状態。夏は地方大会から荒れ放題で、それを連日マスコミが報道。甲子園でも改善せず、決勝に来るまでにかなりラフプレーなどやらかしたので、これもまた集客の酷さに大きく影響しました。
98年の松坂世代で一気に連日満員の大会となり、球場はJリーグ開幕前、つまり93年以前の活気のあった甲子園に戻りました。
そうか、もうこの時代を知らない世代がどんどん増えているのかあ。時が経つのは速い。
決勝戦が石川代表vs東東京代表ということもあってか、三塁側の帝京サイドが内野、アルプススタンドともにかなり空席が目立つ試合でしたね。
選抜~夏の決勝まで、帝京は問題だらけで、マスコミも世間も大バッシングしていました。
それにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響してそうです。
前年の九州勢対決ではもっとお客さんいましたし、松坂世代では一気に集客が回復しましたし。
翌年96年の奇跡のバックホームでも、お客さんは少ないので、この頃は相当野球人気が落ちた印象でした。
まあ阪神大震災があった年でしたし、かつ地元の近畿勢か関与していない平日の決勝戦ですから、仕方がないのでは?
東東京は関東一高と二松学舎大付ばかり出てくるようになりましたね
この頃は帝京ばかりでした
90 関東一高
91 帝京
92 帝京
93 修徳
94 関東一高
95 帝京
96 そうじつ
97 岩倉
98 帝京
99 城東
00 日大豊山
01 城東
02 帝京
03 雪谷
04 修徳
05 国士舘
06 帝京
07 帝京
08 関東一高
09 帝京
10 関東一高
11 帝京
12 成立学園
13 修徳
14 二松学舎大学付
15 関東一高
16 関東一高
17 二松学舎大付
18 二松学舎大付
19 関東一高
早実と国士舘は今は西東京ブロックになりました
関東一高ってめっちゃ名門やなw昔から強いなんて
@@田中か-v4i
日大三を強力打線に化けさせ、2001年~2011年まで常勝軍団に格上げさせた、あの小倉監督が采配をしていました。
85年~94年です(90年は一旦退いて別の方が監督でした)。この時も小倉監督は、85年の夏初出場でベスト8、87年春準優勝へとチームを導いています。
山本省吾くんひさびさに見たわ。
確かこの時キャッチャー共々テーピングでガッチガチに固めて決勝に臨んだんだよね。
もうこの時に肩が悲鳴あげて結局プロに行ったんだけどあまり活躍できなかった。
永田誠 40勝しているのでまずまず頑張ったと言えるでしょう。元々コントロールとテンポで勝負するタイプですし。
決勝なのに空席あるのか…
まぁ地元が関与しない平日の決勝戦ですし、阪神大震災があった年ですからね。
ハンカチ世代(2006)ではなく、松坂世代(1998)で爆発的に集客できるようになりました
ちなみに松坂の頃の選抜は(2000年代前半まで同じ)、開幕~決勝の日程が相当遅く、おまけに雨で順延したので、決勝は新学期開始以降。従って学校関係者すら殆ど来られないとう事情がありました。関大一校のOBばかりの声が目立っている印象でした。
この年(95年の選抜開始~選手権決勝)は、帝京がとにかく問題だらけで、チームも監督も最後まで悪役を通している感じでした。とにかくマスコミも世間も帝京バッシングという状況でした。
そこにJリーグが93年に開幕して野球人気が著しく低下。更に阪神大震災が起きて最初の夏。これらも影響しているはずです。
前年の94年九州勢対決ではもう少しお客さんはいました。
翌年96年の奇跡のバックホームでも、98年ほどお客さんはいないので、いずれにしてもこの頃から相当野球人気が落ちた印象でした。
「93、94、96年は確認したら満員」というコメントもありますが、当時は大事なスポーツイベントでは無理やり数を多くする傾向がありましたので、実際に当時見た感覚では割と空席がありました。
選抜で伊都高校に負けた帝京その伊都に勝った星稜が夏は帝京に負けた
よくありますね 2007の佐賀vs東京のような
帝京も智弁和歌山との名勝負あるわけやし、また甲子園来てほしい
東の横綱復活頼みます
平成4年春優勝試合で宮崎選手が外野からキャッチャーまで一投げノーバウンドアウトして優勝
確か私の記憶違いでなければ平成7年の優勝試合もセンターの一番深いところからキャッチャーまで一投げしていた選手がいたような
投げた本人が一番覚えているはずですね。
ノーバウンドでわなくワンバウンドです。
この年の帝京って、都大会において、ピッチャーに調整投球させるために、サヨナラのランナーを故意にホームインさせなかった問題があったんだっけ?
サヨナラじゃなくて、コールドゲームやないかな。タッチアップ事件、で有名ですね
この帝京3番吉野くん。ガチンコのメジャーリーガー目指す企画に出てきた。
その時のコーチ池田って奴がバカだったから吉野くんは途中で外されたけど、見る目ある人だったら、吉野だったらメジャー契約取れたかもしれないなぁ。
台本あるからね~
帝京は地方大会の時からあまり評判がよろしくなかったもんね、、異常な程の練習量で当時の3年生が大量離脱したってのを本で読んだけどそれでも戻ってきたショートの吉野さんのファンでした。
ガチンコに吉野さんと78回大会優勝した松山商のドカベンが出てたのにはビビりましたけど(笑)
帝京は星稜と違いすっかり甲子園に出場しなくなりましたね
オリックス二桁カルテットの山本
この頃は今よりユニフォームの縦縞がだいぶ細いですね
ストライプの本数・幅も違いますね
一緒じゃねーのー?
chiro kazama 見比べると全然違うのが分かる
この年の帝京は予選で相手を見下した、公式戦なのにまるで相手を練習台扱いして色々批判を浴びてたな。この決勝でも星稜信藤への故意としかみえない不用意なタックルとかあったけど、星稜が負けたのはここまで来るのにけが人が多過ぎたのが一番の敗因だったと思う。あだち充のH2の漫画で悪徳高校のモデルにもされて気の毒だったな帝京は。とも思った。もしこの時星稜が優勝してたらH2の帝京がモデルと思われる(てかどう見ても帝京がモデルとしか思えないが笑)栄京学園も生まれてなかったかもね。
連載で英京学園登場したの93年終わりあたりっすよ
北斗神拳のジャギみたいな帝京高校の前田監督と明徳義塾の馬渕監督。
「どんな手を使ってでも勝てば良い。」
そんな風にしか聞こえない。
練習して積み上げてきたものが、なんの役にも立たなくて相手を潰せば良いとか。
さすがだと思います。
実は漫画家のH2の原作者のあだち充さんのご子息が当時帝京中学・高校に通っていたらしい。そこらへんの影響も大きいのかと。時系列的にも漫画のほうが少し早いしね。
この時は星稜よりも敦賀気比の方が強かった!!
阪神大震災の年 星稜の初優勝はこの時が一番近かったかも この時に星稜優勝できなかったのが響いてるかも
優勝の瞬間実況静かだな
この頃まではNHKも、昔風の静かな実況が良しとされていましたから、こんな感じのトーンもまだ今ほど珍しくなかったです。
加えて阪神大震災後最初の夏。更にこの年大問題の帝京。これらが重なり、全体的に盛り上がる雰囲気ではありませんでした。
星稜は監督の方針と接戦が多かっただけに控え投手に登板機会を与えることができず育てることができず山本省吾が3年生の時も全国制覇できなかった。
やましょー!オードリーの若林に似てる
当時はオードリー若林の存在がなかったけど、今見るとそう感じますね!
当時の星稜の捕手が今年の星稜バッテリーの中学時代の指導者。
シノトモ 捕手の弟ですよ。
前田監督若い!
帝京?誰が応援するねん
親でしょ